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農業、そして人と関わり今思う事


今年は暖冬の影響により梅の開花も早く2月の梅まつりの初日には十郎梅が八分咲きの状態でした。一斉に花が咲き、受粉は順調と思ったのも束の間で、2月~3月の天気予報は週末になる度に雪マークが並びます。

平野部では雪が積もるほどではなかったものの、思い出されるのは数年前の凍霜害。実が目視できるようになった頃に気温が急激に下がり、霜がおりたために実が傷んでしまい、大不作となってしまいました。

寒暖差激しい今年の冬、そしてこの先の梅雨は長く、猛暑が早くも予想されており、より作物には厳しい、生産者も予想がしにくい気象となっています。

 

2月上旬、心地よいお天気の日に、長谷川由美子さんのご自宅を訪ねました。

「昨日自宅で節分の豆まきをしたの」と立派な枡見せていただきましたが、由美子さんといえば四季の行事、町の行事、農業、交流と、日中見かけない日はないのではないかと思うほど働き者で、お料理も上手なのです。

 

 

下曽我に生まれて

私が育ったのは下曽我で、小さい頃は商店街に映画館などもあってとてもにぎやかでした。御殿場線の電車の本数は当時と変わりませんが、(※通勤・通学時間を除き上り下りともに1時間に約1本)小田急線ができるまで、御殿場線が通っているというのは周辺住民にとっては重要なインフラでした。私が高校1年生の頃までは御殿場線に蒸気機関車がはしっていましたから、制服がススで汚れたなんてことを思い出しますね。

 

大人になってからは公務員として働いていました。簿記1級の資格を活かせる部署に配属になるものと思っていたのですが、配属先は「県民相談室の受付」でした。

そういえば採用試験の際に自分の将来像を記入する欄があって、「かわいいお嫁さん。おばあさんになったときに孫たちに囲まれて縁側で日向ぼっこをしているような…」と書いたので、県民相談室には適任だと思われたのかもしれません(笑)

 

県民相談室で働いているときはなかなか相談に来る人がおらず、心機一転、何か新しいことをはじめよう!と青年会の生け花教室に通い始めました。当時は農家の息子が中心となる「青年会」の活動が活発で、このあたりは多くの農家の息子さんがヨーロッパ研修に1ヶ月行ったりと、勢いがありました。

 

主人(ジョイファーム小田原前代表 長谷川功氏)とはその青年会で出会いました。主人は下曽我支部の会長を務めた後、小田原支部の会長もしたりと、当時からリーダーシップはありましたね。

農業をしたこともなかった

その後、交際がはじまりましたが、実は私は農業に全く関わったことがありません。

みかん畑に来て、剪定がされた木と、丁寧に根元に敷かれた藁、草のない綺麗な畑で楽しくみかん収穫をさせてもらって「これが農業なんだ~!」と思っていたくらいなので、世間知らずだったのですよね~…

どちらかといえばインドア派、木に登ったのもここに来て人生はじめての出来事だったし、春になって木の根元に穴を掘って、肥料を土に混ぜるなどの作業を行うなんて想像もしなかったのです。(笑)

農家に嫁ぐことになった際に、既に野菜農家にお嫁に行ったお友達に「由美ちゃん!農家は大変だよ、絶対にやめたほうがいい!」と言われました。両親もとても心配していました。何しろ幼少期から靴に蟻がのぼっただけで泣いてしまうような子だったので…。

 

農家にお嫁に行って良かったのは野菜がおいしいことですね!でも、農家出身でないからこそのエピソードもありますよ。昔はトマトといえば赤くなる前のものが八百屋さんに並んでいるのが普通だったので、ある時畑に行って青いトマトを収穫してきてしまったことがあったのです。おばあさんが捨ててはもったいないとぬか漬けにしてくれたこともありましたね。

 

虫はまだ苦手ですが、手袋もしているので、昔ほど苦手ではなく、触れるようになりました。(笑)今でも家庭菜園は続けていますね!

みかん農家としてスタート…しかし

お嫁に入ってからは徐々に農業に関わっていきました。

昔はみかんの消毒をする際は、今のようにトラックの上でタンクに水を入れて薬剤を入れて散布ではなく、畑の近くに水槽があったのでそこに水をためて、薬剤を入れて、攪拌(かくはん)をしなければならず、攪拌をする役割の人が必要だったのです。主人に攪拌の係りをお願いされて、よく一緒に山へ行きました。もともと本が好きだったので本を読みながら時々かき混ぜて、主人に残量を伝える…そんなこともしましたね。

 

うちでは私がお嫁に入った当時、親族だけでみかんの栽培をしていました。子供たちも小さいころはお手伝いをしてくれて、長谷川家のみかん小屋の壁には子どもの絵がたくさん描かれていると思うのですが、その記録なのですよ。

 

しかしみかんの価格が大暴落、続いてオレンジの輸入の自由化が発生し、みかん農家はたびたび窮地に立たされます。

市内でみかん栽培をしていた農家は、暮らしをなんとか支えるために小田原競輪所でアルバイトをしはじめます。よく、ジョイファーム小田原の生産者の話で「ジョイファームに入ったきっかけは主人や鳥居現代表と小田原競輪所で出会って…」とお話があると思いますが、この時がきっかけなのです。

うちもみかんだけではなく、キウイフルーツ、もともと少量栽培していた梅栽培を拡大、その後ブルーベリーや菜花もはじめるようになりました。

 

今ではあちこちで栽培されているブルーベリーですが、当時はこの周辺では栽培されておらず、部会を作って東京の小平の畑を見に行ったりしました。

生協との関わり

生協と関わりはじめたのは、ジョイファーム小田原を設立する前からですね。

子どもが生まれた頃には生協との関わりが強く、多くの職員さんが毎日のように訪ねて来られて、泊まっていったりもしました。農家ならではの家庭菜園からとれたての野菜を使った料理、あとは手作りのこんにゃくを振舞ったりしましたね。

 

その後、ジョイファームが設立して、女性生産者は婦人部の活動がスタートしました。「交流」については偏りがなく、生産者全員が均等に組合員さんに関わって欲しいと思ったので、私は「婦人部長」の役を担ったことはないのです。

婦人部での活動は主に地元行事での豚汁作りや組合員さんとの交流会でのお料理作り、そしてオニオン祭のカレー作りではより多くの支部から女性生産者が集まりますね。

 

なかなか普段は集まる機会がないのですが、2009年に行われた全国の生産者が集まる「女性生産者交流会」で小田原が担当になった際は他産地の方に楽しんでもらおうと「ちょうちん踊り」と、小田原の農業についての「劇」をしました。劇については、農家の暮らし、女性生産者の苦労を感じられる一方、笑えるようなエピソードを加えて、婦人部のみんなで脚本を作り、配役を決めました。

 

「女性生産者交流会」では他産地の農家の奥さんの暮らしぶりを知ることができて、刺激を受けましたね!

 

 

そして生協の援農のチームも昔からよく手伝ってくれています。手際がよく、様々な農作業に慣れていて時々、個人で畑を借りて耕作をはじめられる方もいるのですが、「やっぱり手伝いと自分の畑とは違う」と伺います。

小田原の未来

「長谷川農園」として従業員を雇って農業をはじめたのは今から20年近く前のことでした。

最近では親しい生産者から畑を借りてもらえないかと相談を受けることが多くなっています。昔は自分の土地のみかん畑だけだったのですが、現在はそこから2~3倍借りている土地が増え、場所も点在しており、管理が大変です。

 

働いている子は、本当に良い子ばかりですね。気が利くというか、例えば仕事中に私が荷物を運んでいて、その荷物を置く場所に別の荷物があったとしますよね。声をかけなくてもその先のことを考えてサッと片付けてくれたり、持ってくれたりができる。

農業のセンスは個人差があって、いくら教えても基礎ができない子もいる一方、長年働いている子は何をやらせても早く正確で、農産物の品質も良いのです。

今は人の雇用が厳しくなっていて、良く働いてくれている子には昇給などもしたいと考えるのですが、農産物の買い取り単価は安く、資材はどんどん高騰し、人の雇用の場としては農業には厳しい時代がやってきたなと感じます。

休日も、昔は農業といえば晴耕雨読(せいこううどく)で通じましたが、今は農家もサラリーマン化しているので、人を雇う以上はそれでは通じないのです。

 

うちのみかん山に登ると、海、山、町が一望できてとても綺麗なんですよ。

この景色が変わらないでいて欲しいと思うのですが、それには若い世代の後継者、新規就農者に頑張ってもらうしかないのです。

適正な価格で農作物を買ってもらうことは生産者を育てることにつながり、最後は「持続可能な農業」に繋がりますね。生活に困窮し挫折してしまう生産者が増えれば農業はますます廃れてしまい、農地が荒れ、地域の活気が失われることになるのです。

ですから、是非、地域の農産物の価格についてもっと考えて欲しいですね。

 

さて、いろいろお話しをしましたが、一度だけ若い頃に心が弱くなってしまった時期がありました。「私、農業だけしていく人生なのかしら」と。

 

でも今は違います。子どもが大きくなり、今は主人と同じ農業に一生懸命取り組んでいるし、これまで沢山の人に出逢い、農家をしていたからこそ、普通の人ではなかなか経験ができないことを沢山できて、本当に良かったなと思います。